温泉の歴史

酸ヶ湯温泉の歴史

酸ヶ湯の始まり

湯坂からの建物全景
湯坂からの建物全景

 ここ酸ヶ湯温泉は『およそ三百年前の貞享元年(1684)、横内(現青森市内)に住む狩人「長内 佐ヱ門四郎」が鹿をしとめそこない、その手負いの鹿を追って山へ入った。それから3日後に発見したが、傷を負っていたはずの鹿があっという間に岩山を駆け上がり逃げ去ってしまった。その俊敏さをみて不思議に思い、付近を探索したところ温泉が湧いているのを見つけた。その後、その温泉に薬効があることを知り「鹿の湯」と名づけ利用した』という由来があります。

建物
建物

 江戸期より湯治客が多く、現在の大浴場「熱湯」の周辺に数ヶ所お湯が湧き出しており、地元の者がそこに小さな小屋を建て、山菜取り人や狩人らに温泉を開放していたそうです。

 そういった小屋主(湯主)らが協力して組合を設立したのが「酸ヶ湯」の原形となりました。最初は湯治棟しかありませんでしたが、その後旅館部等を増改築し現在に至っております。

国民保養温泉地第1号

手踊り
手踊り

 ここ酸ヶ湯温泉は、その卓越した効能と豊富な温泉の湧出量、広大な収容施設、清純な環境、交通の便、低廉な料金等が認められ、昭和29年に数ある全国温泉のモデルケースとして「国民保養温泉地第1号」の指定を受けました。

 国鉄時代は今の食事処「鬼面庵」がある場所に国鉄「酸ヶ湯温泉駅」がありました。

酸ヶ湯を愛した人々

建物と鹿内仙人
建物と鹿内仙人

 酸ヶ湯の歴史でかかせない人物として「鹿内 辰五郎」氏をあげることができます。彼は15才から60年間酸ヶ湯に勤務しました。明治35年の八甲田雪中行軍遭難事件など多くの遭難事件で人命救助に当たる一方、長年山の案内人をつとめ「仙人」の愛称で皆に親しまれました。

棟方志功画伯
棟方志功画伯

 世界的に有名な版画家「棟方 志功」画伯も酸ヶ湯が大好きで、湯治をしながら作品を彫られたそうです。

 館内に志功画伯の作(柵)となる版画・書を、多数飾ってあるのはそういった縁からとなります。

 酸ヶ湯の古き良き伝統文化の「混浴」を守る目的で平成17年に発足した「混浴を守る会」の永久名誉顧問である「三浦 敬三」氏も八甲田の山をこよなく愛された方で、そのご子息である「三浦 雄一郎」氏も「八甲田は我が心のふるさと」と語り、酸ヶ湯の湯を楽しみに訪れます。

大浴場ヒバ千人風呂 熱湯・四分六分の湯の名前の由来

千人風呂
千人風呂

 四分六分とは体に感じる温まり具合を表しています。個人差はありますが、熱湯(ねつゆ)は「母の意見と熱湯(ねつゆ)ばかりゃぬるいようでも粗末にゃならぬヨ、あとでききます、身にしみる」と「八甲田音頭」で唄われているように、長い時間温もりが持続し、後々まで体が温まります。

 四分六分(しぶろくぶ)は入ると熱湯(ねつゆ)より熱く感じますが、温もりの持続が熱湯(ねつゆ)より短く、四分から六分ぐらいの温まり具合になると言われて、その名が付けられました。